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R.I.P. Philip Seymour Hoffman - 4 and 5 / almost famous / The Master



たとえそれが駄作と呼ばれる映画であったとしても(どれが駄作?)、彼が演じるシーンでは時に主人公よりも強烈な印象を残すこともあったし、たとえそれがハリウッドのアクションエンタメ系映画であったとしても
まるで名もないインディーズ系映画に出演している時と同じような振る舞いで僕らを楽しませてくれた。
内容もまだよくわからない新作映画のキャストの中に彼の名前があるだけで、もうその映画は名作の仲間入りも同然の証だった。
いやどんな監督であっても俳優でも、一度は彼といっしょに仕事をしたかったんじゃないか。
監督も俳優もスタッフも彼と同じ現場に居れることをどれだけ幸せに思っていたことか。
観客の僕らも映画の本編よりも本当に見せたかったのは彼のシーンにあったのではないか、そう思わせるようなマジックをもっていた。
フィリップ・シーモア・ホフマン、僕にとって、いや世界中の映画マニアにとってこれほど特別な存在の俳優はここ数年はいなかったように思う。

しかし悲しむべきは彼のいなくなったことではなく、彼の演技や映画を観たり語らなかったりすることなのだ。
映画の中での彼の涙は、君や僕の涙であったはずだし、熱く語る彼のセリフを何回も見ているうちに
まるでそれが僕らの吐いた言葉だったと錯覚したものだった。
彼は同じ痛みや苦しみを持った人たちのココロを一瞬にして鷲掴みてにしてみせた。
そして僕らはそこに彼の持っている痛みを感じとれるようなキモチにもさせてくれた。
僕らは映画の中に、どこか満たされない自分の虚無感にシンパシーを持ってくれる言葉や演技を追い求めてスクリーンに向かい合ってきたんじゃなないのか。
演技派、なんて言葉は好きじゃない。
だってどんな俳優も映画では演技してるものだろ。もしもそれが等身大の彼らに見えたとしたならそれも演じるということの一つでもあったはず。
彼の話す英語でなくてもスペイン語でも日本語の吹き替えでも彼のスクリーンでの佇まいは言葉を超えて魅了させてくれた。

この映画『あの頃ペニー・レインと』の中でのフィリップ・シーモア・ホフマン扮するレスター・バンクスが主人公ウィリアムに対して深夜の電話で、バンドとの記事についてを助言するシーンで僕はまるでウィリアムになったようなキモチで彼の話にココロを留めた。

「俺達はカッコつけの人種じゃないんだ。だから女とも、うまくいかないのさ。…」
 

『ザ・マスター』は2回観たよ。
ホアキン・フェニックスとの演技合戦的なところだけが話題になっていたけど
ポール・トーマス・アンダーソンの作品は全て彼がそこに居てこそ。
彼が居なければ二流の監督で消えていたかもしれない。

『The Master』から『中国行きのスロウ・ボート』を。





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